同じ川に同じ橋はかからない
ナラティブ(物語り)とは何か?
ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず(方丈記より)
川は絶えず流れており、同じ水は流れていない。
「い」という瞬間に流れている水と
「ま」という瞬間に流れている水は
異なる。
つまり、瞬間、瞬間によって川は変化し、同じ川というものは存在しない。
同じ川の流れには二度と入れないのである。
これはナラティブ(物語り)にもいえることである。
ナラティブ(物語り)とは
物語りは「橋をかける」働きを多く持っている。
物語りを語ることは「橋をかける=関係づける行為」である。
最も分かりやすい例は
「語る」ことは「語り手」と「聴き手」をつなぐことである。
語り手は(目にみえなくても)聴き手を思い浮かべなければ、物語りを頭の中で組み立て始めることさえできない。(中略)この語り手と聴き手をつなぐ架け橋が、実際には大変複雑なものであるということが分かってくる。
あるお話を語り聴かせようとするとき、
語り手は「全く同じ」物語りを繰り返して語ることができない。
なぜなら、
語り手による語るという行為そのものが、お話自身を変化させ、
また
聴き手の立場からいえば、語り手によって語られたお話を正確に「聞き取る」ことは誰にもできないからだ。
語るという行為そのものが、瞬間瞬間で変化することはいいだろうか。
聴くという行為は、身を入れてきくということである。
『類語国語辞典』(角川書店)・・・「聞く」は、音や声を耳に感じ認める意、「聴く」は、聞こえるものの内容を理解しようと思って進んできく意である。
この身を入れて理解しようとする行為は、相手を慮りながら自分で解釈しようとすることに繋がる。
※“身”というは自分の身である。
逆に聞くという行為は、情報として受け取るという意味合いが強い。
どんなお話にも、その表面に現れる意味と意図された深い意味との間には、ギャップが必ずある。聴き手は、世界の有り様を想像し、語り手の意図を想像しながら、これらのギャップを埋めていくのである。このように、より正確にいえば、私達はお話を聞いているのではなく、聞いていると思っていることについてのお話を自分自身で作り上げているのである。
「お話を語ること」と「お話を繰り返すこと」とは、微妙にではあるが異なる行為なのである。
この語り手と聴き手と結ぶ「橋」、つまり「物語り」に
全く同じものはない。
全く同じ「橋」はないのである。
同じ川に同じ橋はかからない。
では川とはなんだろうか。
川を構成する水とは何を表しているのだろうか。
私の答えはまだ出ていないが、このヤフー知恵袋の答えが秀逸だったのでのせておく。
医療における物語り
「医学教育には、唖然とするようなことがある。その最たるものは、2年半にわたって、全ての人は同一であるという前提に基づく教育をたたき込まれた後で、今度は全ての人はそれぞれ異なっているという赤ちゃんの時から経験的にわかっていたはずのことを、医学生は自力で再発見しなければならないということである」(プラットPlatt R)
全ての人を同じとみなす医学
患者から物語りを抽出して、それを「病歴」という医学化された物語りに変換する
全ての人はそれぞれ異なっているとみなす医学
実際に生きた体験としての物語り
私達は「病歴」を向う岸から橋を渡って運び戻し、患者が構築しようとしている「実際に生きられた体験としての物語り」に、それをうまく結びつけることができるように助けることが必要である。
この「生きた体験としての物語り」を通じて、患者は自身の「病い」に意味を見だすことができるのである。
医師と患者の交流では
物語りは橋を渡って行ったり戻ったりをしながら、
一方の岸では医学的な観点から「病歴」をみて、
反対の岸では「生きた体験としての物語り」として語られることを繰り返す。
私が医療において心がけたいと思っていること。
「ナラティブ・ベイスト・メディスン」より
編集 トリシャ・グリーンハル/ブライアン・ハーウィッツ
※今回の記事は、ほぼこの本の引用を使っています。
ただ、全てを引用にすると分かりにくいと思い、引用を外している所が多々あります。ご注意ください。
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